2008年11月30日日曜日
飯田橋から池袋まで歩いた
飯田橋から池袋まで歩いた。 小石川といえば小石川植物園、後楽園といえば遊園地か球場しか思い浮かばなかった。小石川後楽園に初めて行き、さらに池袋まで歩き、東京のど真ん中にこんな空間があることを発見。
小石川後楽園は、水戸藩初代藩主から水戸光圀公の時代の上屋敷、庭園の設計を京都や中国(当時は、明から清)を参考にし回遊式庭園を造っている。当時の江戸の光景は分からないが、現代の感覚で言えば、田舎の光景ではないかと思うが、そのような中で、庭園を作ることの動機には興味ある。
一時間半ほど庭を観賞し、昼食後に、池袋方面への散策。江戸時代の上水道跡地、水道端通り、永井荷風の通った黒田小学校跡、江戸川橋、野鳥の森公園、関口の芭蕉庵、ここも文京区にこんなところがというほど、見事な空間が、隣の椿山荘とは真逆な空間、胸突坂を上り、文京区の散歩道を進み、日本女子大寮から雑司が谷商店街を抜け、都電三ノ輪線をすぎると、三の酉の屋台とお囃子が一寸物悲しい、大鳥神社を通り抜け、鬼子母神へ。鬼子母神入り口には樹齢、600年のイチョウのご神木に一礼し、寺の密集している南池袋を抜けると、ちらほらと赤提灯が見えてくると、角を曲がるたびに池袋東口の雑踏の中へ迷い出た。 飯田橋から池袋まで、6㌔ほどを二時間近く、退屈しない散歩になった。東京にもこんな空間が残っていたとは。
山手線の駅を基点に、散歩のコースは一杯ありそうだ。
2008年11月26日水曜日
料理教室二年目
料理教室二年目は、「めんを打つ会」。 初回は、うどんすき。「うどんすき」は美々卯の登録票標とのこと。うどんは、中力粉200㌘に塩小さじ二杯いれた100ccの水を用意し、三度にわたり小麦粉に加えてこねるが、45%の水量がベストとのことで、大匙一杯ほど残す。 力を入れて十分ほどこねてから丸めて、30分以上寝かす。 その間、京がんもの味付け、こんぶとかつおによるだし汁を用意する。うどんすきの具は、京がんものほかに、鳥肉、海老、はまぐり、しいたけ、サトイモ、白菜、にんじん、三つ葉に薬味に万能ねぎ。
次に寝かせたうどんを麺棒で伸ばし、切る作業に入る。屏風たたみにして、三分の一を昼食用に、残りを持ち帰りようにする。
材料が揃ったところで、土鍋に出汁と調味料を加え、ハマグリ、鶏肉、海老の順に加え、熱くなったところで、白菜、しいたけ、さといも、にんじんを加え、最後に三つ葉を乗せる。 今回は、出汁で使った、昆布を使って佃煮を作った。 一寸茹で時間が短かったか、佃煮には今一歩。
土鍋をテーブルに移し、会食。出汁のとれたうどんすき、初めて打ったうどん、共に納得の味。
次回、12月はそばを打つ予定。道具に嵌りそうな予感が。
次に寝かせたうどんを麺棒で伸ばし、切る作業に入る。屏風たたみにして、三分の一を昼食用に、残りを持ち帰りようにする。
材料が揃ったところで、土鍋に出汁と調味料を加え、ハマグリ、鶏肉、海老の順に加え、熱くなったところで、白菜、しいたけ、さといも、にんじんを加え、最後に三つ葉を乗せる。 今回は、出汁で使った、昆布を使って佃煮を作った。 一寸茹で時間が短かったか、佃煮には今一歩。
土鍋をテーブルに移し、会食。出汁のとれたうどんすき、初めて打ったうどん、共に納得の味。
次回、12月はそばを打つ予定。道具に嵌りそうな予感が。
2008年11月11日火曜日
邪馬台国
邪馬台国、倭、卑弥呼。 いづれも中国の三国志魏志倭人伝ほかに記述されている、三世紀前後の日本列島と思われる国に関する記述だ。同じ時期に関する日本側の記録はない。 なんといってもその時点では記録すべき文字をもっていなかったのだから。
最近、日本の出発点に関する本を読み始めているが、人の歴史はアフリカに始まり、各地に展開したこと、日本人の起源は、大陸から南方または北方経由で移動してきたこと、日本語の起源は南インドの、タミールにありそうなこと、稲作等の技術は大陸からの渡来人と一緒に入ってきたこと、2世紀以降、日本国の起源があると思われること。六世紀以降に漢字と中国の文化が伝わってきて、記紀ほか律令ほかが構築されたこと。七世紀以降の事象は記録が伝えられているが、2世紀から5世紀の間の、いわゆる古墳時代の情報は極端に少ないので、邪馬台国の所在、卑弥呼の背景が定まっていない。
「まぼろしの邪馬台国」もそのような背景で書かれた歴史著作で、邪馬台国が島原近辺という仮説も出てきた。
今日観た、同名の映画は邪馬台国論映画というより、相変わらずだが主役の吉永小百合の映画になっている
最近、日本の出発点に関する本を読み始めているが、人の歴史はアフリカに始まり、各地に展開したこと、日本人の起源は、大陸から南方または北方経由で移動してきたこと、日本語の起源は南インドの、タミールにありそうなこと、稲作等の技術は大陸からの渡来人と一緒に入ってきたこと、2世紀以降、日本国の起源があると思われること。六世紀以降に漢字と中国の文化が伝わってきて、記紀ほか律令ほかが構築されたこと。七世紀以降の事象は記録が伝えられているが、2世紀から5世紀の間の、いわゆる古墳時代の情報は極端に少ないので、邪馬台国の所在、卑弥呼の背景が定まっていない。
「まぼろしの邪馬台国」もそのような背景で書かれた歴史著作で、邪馬台国が島原近辺という仮説も出てきた。
今日観た、同名の映画は邪馬台国論映画というより、相変わらずだが主役の吉永小百合の映画になっている
2008年11月9日日曜日
294号を行く
294号線は、千葉の柏と福島の会津若松をつなぐ国道だ。 ただし、柏から国道6号と一緒になっているので、実際の294号は茨城県取手から始まる。取手と白河の間は何度か通っているが、会津若松までは今回が初めて。家を出たのが9時15分ころ、船取線から、6号にでて取手に入り294号の案内に従い左折し、しばらくは関東鉄道常総線に沿って北上する。水街道を過ぎるころから、右手に筑波山をみながら関東平野の真ん中を走る。しばらく行くと左手に城がみえるが、これは城をかたどった資料館。天守閣からの眺めは良さそうだ。 下妻物語の舞台となった下妻を過ぎると、最初の休憩地点、下妻道の駅がある。 さらに北上し下館市外を抜けると右手に真岡鉄道が見えてくる。休日にはSLが走るらしいがまだ出会ったことはない。関東鉄道も下館終点なので、時間があれば鉄道の旅も悪くない。しばらく走ると二宮道の駅が見えてくる。イチゴの季節には栃乙女が目に付く。しばらく栃木路を走るが、茨城側では二車線化の工事が進んでいたが、栃木に入ると一車線になり、ドライバーにとっては運転しやすくなる。真岡市内を抜けて、何度か真岡線を抜けて、益子町にはいる。時間があれば陶芸をみることも可能だが、先を急ぐ。道路も里山の中を縫って走る感じで、茂木近くから田舎の道になる。
烏山を過ぎると右側の那珂川に沿って、北上する。途中、屋号をそろえた佐良土地区を抜けてしばらく進むと、黒羽に入る。きになるそば屋があるが通過。しばらく那須町を走り、大きな農家風のそば屋のある道の駅東山道伊王野を過ぎると芦野に入る。 ここには芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」遊行柳がある。他にも、蕪村、西行の句碑もあるそうな。芦野から白河までは、旧陸羽街道沿いに進み、福島の白河に入る。白河市内を進むと、右手に藤駒本店がある。市内を抜けて4号線を左折し、最初の信号を右折して294号は会津若松を目指す。地図で見ると猪苗代湖の南側になるが、この部分には道の駅もない、東北の田舎道。西に傾いた陽を背に、峠を三つ越えて猪苗代湖の西側を走るが、東側とは異なり猪苗代湖は見ることは出来ない。途中、昔の街道の趣を残す、赤津地区を過ぎ、強清水の看板を見ると、49号に出会う。 強清水には何件かのそば屋があるが、そのまま通過、この日のゴール米沢を目指す。49号から県道33経由で121号にでて喜多方ラーメン街を経て、大峠を越えて米沢駅前に17時50分着。 次回は、芦野あたりで一泊してのんびりドライブしてみたい。
翌日は、今回の目的、旅篭町の仁左衛門の会で大いに飲んだ。
烏山を過ぎると右側の那珂川に沿って、北上する。途中、屋号をそろえた佐良土地区を抜けてしばらく進むと、黒羽に入る。きになるそば屋があるが通過。しばらく那須町を走り、大きな農家風のそば屋のある道の駅東山道伊王野を過ぎると芦野に入る。 ここには芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」遊行柳がある。他にも、蕪村、西行の句碑もあるそうな。芦野から白河までは、旧陸羽街道沿いに進み、福島の白河に入る。白河市内を進むと、右手に藤駒本店がある。市内を抜けて4号線を左折し、最初の信号を右折して294号は会津若松を目指す。地図で見ると猪苗代湖の南側になるが、この部分には道の駅もない、東北の田舎道。西に傾いた陽を背に、峠を三つ越えて猪苗代湖の西側を走るが、東側とは異なり猪苗代湖は見ることは出来ない。途中、昔の街道の趣を残す、赤津地区を過ぎ、強清水の看板を見ると、49号に出会う。 強清水には何件かのそば屋があるが、そのまま通過、この日のゴール米沢を目指す。49号から県道33経由で121号にでて喜多方ラーメン街を経て、大峠を越えて米沢駅前に17時50分着。 次回は、芦野あたりで一泊してのんびりドライブしてみたい。
翌日は、今回の目的、旅篭町の仁左衛門の会で大いに飲んだ。
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