奥明日香

奥明日香
最新のウォーキング

2008年6月12日木曜日

石原慎太郎 「太陽の季節」、丸山健二 「夏の流れ」を読んだ。

石原慎太郎 「太陽の季節」、丸山健二 「夏の流れ」を読んだ。 どちらも23歳での芥川賞受賞だ。 23歳での受賞者は、他に大江健三郎がいる。大江健三郎についてはじっくり読み直してみたいと思う。 「太陽の季節」の読後感は、うらやましいというか同じ大学生でもこんなに恵まれているのかと感心した覚えがあるが、それはあまり変わっていない。 大学生のころからヨットやナイトクラブへの出入り等、住んでいる世界が違う思いだったが。 「夏の流れ」は期せずして、凶悪事件の直後に読むことになったが、23歳でよく書けたものと、こちらは別の意味で感心した。「太陽の季節」には物語のエッセンスのような経験が背景にあることは容易に想像できるが、「夏の流れ」ではそれは想像できない物語だ。

2008年6月11日水曜日

芥川賞を読み続けている。

芥川賞を読み続けている。 最近の辻原登、吉田修一に始まり、古井由吉から昭和二十年代の作品を読み直し始めている。 芥川賞で面白いのは、それぞれの受賞作の面白さもさることながら、選考委員の選考コメントを読むのがなかなか面白い。 選考委員は大御所と思われる作家が担当しているが、彼らの個性も好みも一律ではなく、ある委員に言わせると、「人生派」と「唯美派」に大きく分かれるそうだ。唯美派には川端康成、井上靖、舟橋聖一氏が該当するそうな。 なぜか読んだことのない、舟橋聖一さんのコメントが違和感がない。 是非、芥川賞は芥川賞全集を読まれることをお勧めしたい。 今週は芥川賞全集五巻に時間を割きたいと思う。 五巻には石原慎太郎、大江健三郎、吉行淳之介、安岡章太郎、遠藤周作、開高健他そうそうたる作家の作品が集まっている。

2008年6月10日火曜日

津村節子 「玩具」、高井有一 「北の河」、柏原平三 「徳山道助の帰郷」 を続けて読んだ。

津村節子「玩具」、高井有一「北の河」、柏原平三「徳山道助の帰郷」 を続けて読んだ。 それぞれ物語は違うが、共通点として個人的な経験をベースに書いていることかなと思う。 作家の経歴を見るとそれぞれの物語に関係がありそうな事象が見える。 もちろん体験したことをそのまま書いているわけではないだろうが、「玩具」は夫婦の、「北の河」は母子の、「徳山道助の帰郷」は祖父と一族をテーマに書いている。 三人は昭和40年から42年にかけて芥川賞を受賞したのだが、そのころは大学に入ったころで、何をしていたのだろうか?

2008年6月8日日曜日

柴田 翔 「されどわれらが日々ーー」を読んだ。

柴田 翔 「されどわれらが日々ーー」を読んだ。 午前中に、10㌔ほどウォーキングし、昼食後、一気に読んだ。 題名を記憶しているほどに内容は覚えていなかったが、読み進むうちに構図を思い出した。 六全協前後を舞台装置に、二人の死と、その背後の幾つかの別れと出会い。 主人公がH全集を手にすることから物語が始まるが、H全集って? 誰のだろうと思ったが、序の言葉が堀口大学訳の文章ということから可能性として堀口大学全集か? 作品が書かれた時代背景は、六全協から1955年前後と思われるが、この時代はまだ小学校入学前後なので、一寸分からないが、「されどわれらが日々ーー」 それぞれの時代に、”それぞれの日々”はあった。

藤沢周平 「三屋清左衛門 残日録」を読んだ。

藤沢周平 「三屋清左衛門 残日録」を読んだ。 久しぶりの藤沢周平の三屋清左衛門、状況は似たようなものか。15編の物語の背景には藩主交代と、執政職交代があり、旧友との出会い・別離ほか。 現役で活躍できる力がありながら一線を退き、それでも時々請われて影響力を行使する残日録。見習いたいものである。

2008年6月6日金曜日

塩原・尾瀬を歩く


第2回塩原温泉ウオーキングフェスティバルに参加して、新緑の中、塩原・尾瀬を堪能した。 例年より早い梅雨入り直後の初日は雨の中、箱の森プレイパークに集合し、大沼コース(7㌔)と、温泉街の5㌔、10㌔と15㌔コースに別れ塩原の新緑を一身に浴びながらウォーキング。 私は大沼コースに参加し、バスで塩原温泉新湯へ行き、大沼往復。 二日目は今回の目玉の尾瀬コースへ。朝食後、七時過ぎの三号車に乗車し御池経由沼山峠へ。事前に今年の尾瀬は残雪が多く尾瀬沼一周は出来ないとのことだったが、沼山峠から歩き始めると直ぐに残雪が出迎えてくれた。峠を越えて大江湿原に出ると水芭蕉の出迎えを受け長蔵小屋まで木道ウォーク。燧ヶ岳は雲の中だったが、久しぶりの尾瀬を堪能。次回は尾瀬一周ウォークに。

2008年6月1日日曜日

古井由吉氏の、「杳子」を読んだ。

古井由吉氏の、「杳子」を読んだ。 「杳子」で芥川賞を受賞した直後に読んで以来だからかなり時間が経過しているが、最近の芥川賞受賞作家の作品を読み久しぶりに読みたくなった。 「杳子」で印象に残っているのは最初の、K岳からのO沢へのくだりでの出会いから始まり最後まで続く、「杳子」の奥行きも左右つかみ所のない、曖昧で微妙な印象。 K岳は勝手に、甲武信ヶ岳、O沢は稜線を北に下る西沢ではと勝手に脚色したが、「杳子」については当時の少ない語彙では形容する言葉がなく、「杳子」という名前が全てをあらわしているように思っていた。 作者が、「杳子」とした理由がそこにあると思う。 「杳子」。